「文系LALAによる修論体験談」・今昔

20180426日(木)
こんにちは。LALAのみあです。


先週、4月18日(水)、20日(金)のお昼の時間帯は、「LALAセミナー」でした。
昨年に引き続き、文系LALAが修論の執筆体験談をお話しいたしました。

最初に、
簡単なテストをご紹介します。

Q
地図はお好きですか?地図が読めますか?地図を見ながら道を歩くことが得意ですか?

YES→1へ
No→2へ


お進みください。

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昨年の担当は、地図LOVEのベテラン・マーヤさんでした。
昨年の様子についてのブログ記事はこちらです。
とても計画的な修士課程生活であったことが伝わってくるプレゼン資料です。
学会発表などに精力的に挑戦しながら、プライベートも大切に、バランスよく研究を進めるコツが知りたい!という方におすすめです。
とくに25ページからの、「これから起こりうる問題①②」「まとめてみると」「先輩からのアドバイス」の項目は必見です!
私も修論を書く前にマーヤさんのスライドを拝見し「ぜひ参考にしよう」と思った記憶がありますが、書き終えてから見直して、改めて深く共感&納得しました。


今年は、畏れ多くも、不肖(不詳、負傷、無精…)の後輩、みあが担当しました。私は研究テーマが若干独特だったため、軸が定まらずに迷ってばかり、計画的に進めることはできませんでした。路上では方向音痴ですが、修論でも同様で、
「進路に悩む→悩む→ぶつかる→悩む→遅れる→駆け込む→セーフ」
という袋小路の過程を正直にお話しいたしました。
悩む予感を感じておられる方、研究が領域をまたぎそうで不安な方、番外編のようなケースを知りたい方、反面教師が欲しい方にはおすすめです。
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個人的には、両方見比べてみることをおすすめします。
性格、タイプや、研究分野(談話分析と児童文学)の違いが見えてきて、面白いですよ。

今年はパワーポイントを使わないでお話ししましたので、後ほどブログ記事としてまとめる予定でいます。

それでは、今後とも、どうぞよろしくお願いします!


#みあ

理解すること,伝えること(5)-まとめ

20171201日(金)
以上をふまえて、まずは理解する側であるときに意識できそうなことを考えてみたいと思います。

理解する、という場合に、相手の主張の基本的な要素(主題と、主題の根拠となる部分)を正確に抑えておくことはもちろん大切です。
しかし、私たちが書いたり話したりする内容のまとまりには、基本的な要素の他に、「こうであってほしい」などの願望や、「ここを強調すべきだから強調する、ここはそこそこでいい」という、力を入れて示す部分とそうでない部分のばらつきなどが含まれているものです。根っこが一緒でも、枝葉が違うから、ひとりひとりの伝えるものが変わってくるのです。

物事を伝える際、枝葉はとても大切ですが、受け取る際、枝葉の部分をうまくキャッチできなかったり、同意できなかったりするのは仕方のないことです。
(もちろん、枝葉の部分が主題やその根拠の証明にどうかかわっているかをクールに検証する配慮は必要でしょう)

また、主題やその根拠について、とりあえず一度相手のに合わせてみて、「ふーん」と思ったからと言って、そのままそのを自分の中に保ち続けていなくてもよいと思います。デフォルトで持っている自分の認識パターンに戻って、相手のと自分のとを比べながら一休みできたらいいですね。
そして、できるだけ完全にに合わせたいと思う場合でも、力及ばずだったり、心理的に抵抗があったりする場合は、無理をしなくてもよいでしょう。
完全に合わせることはそもそも無理がありますし、型の違いから何かを学ぶ方が、おそらく両者にとって得るものが大きいからです。

理解のためにある程度を合わせてみた後、自分の作ったと相手の持っているとの違いを考察する時、伝える側と理解する側の関係は双方向に開かれます。

伝える側としても同じことだと思います。

何をどう伝えるかを考えるとき、一番大事なのは、主張(主題)とその根拠の部分です。
気持ちの上では、その主張を持つに至った動機や経緯の方が大切で、相手に知ってもらいたいと思うこともあると思いますが、個人的なことになればなるほど、枝葉末節部分になればなるほど、相手と共有することは困難になるでしょう。(もちろん、主張内容や根拠を理解してもらうために必要な部分を選んで、具体例として盛り込むことは重要です。)
伝えるにあたっては、とりあえず主張(主題)とその根拠を押さえてもらうことのみを受け手への期待とするとよいでしょう。

枝葉末節の部分は、主張にその人らしさやオリジナリティを付与する役割はあっても、主張から独立したオリジナリティをアピールする役割もなければ、主張から独立して理解される必要もないのです。
また、もし、相手から何かレスポンスがもらえる場合、相手のと自分のがどう違うのかを考えてみることはやはり大切なことです。
特に伝える側は、必要であれば型と型とをぶつけあって、自分の型を変形させられるくらいの余裕が持てるといいですね。「理解される」ことを求めたのですから、受け取る側からのアプローチも受け止めることにチャレンジ出来たらいいなあと思います。

どうして伝えるのか、そしてどうして理解するのか。
つきつめると、他者と出会い、出会いを消化することで、自分の可能性を大きくしていくためと言えるのかもしれません。
なかなか難しいことですが、理解する側になってみたり、伝える側になってみたりする積み重ねで、バリエーション豊富なたくさんのが持てると素敵だと思います。

最後はなんだか駆け足になってしまいました。
ここまでお読みくださって、ありがとうございました!


#みあ

理解すること,伝えること(4)―伝える情熱の落とし穴

20171123日(木)
伝えようとしたことが完全に伝わることなどない。
ある意味当たり前のことですが、それでも何かを書いて伝えないといけない。
それでは、なぜ伝えるのか。
大学の課題だから、何もしないよりは何かした方がいいから、などの消極的な理由がまっさきに浮かぶかもしれません。
時には、どうせ伝えるなら、これを伝えたい、相手に理解をしてほしい、という思いが浮かぶこともあるでしょう。

何かを伝えようとする時、伝えることがらについて、相手に理解してほしいという強い思いを持つことはとても大切です。
そういう思いがあるからこそ、相手と通じ合うことの少ない状況で、話したり書いたりという「行動」に移ることが可能なのだと思います。理解されにくいことがらだからこそ、自分が率先して伝えるという姿勢に結び付く場合も多いでしょう。
情熱や気概ともいえそうな強い思いが、伝えることを支えているんですね。

一方で情報の受け手が、「理解する側」に変わる時は、伝える側の持っている何かに、どういう形であれ「共鳴」している場合が多いでしょう。内容を構成する「型」に直接関心を持っているのかもしれないし、伝える側の人柄や熱意、姿勢に惹かれたのかもしれません。
当たり前のことですが、「共鳴」し、積極的に「理解したい」と思ってくれる受け手を得ることで、「理解する側」「伝える側」という関係が成立するのです。「理解する側」がいて初めて、「伝える側」の思いが生きてくるのですが……。

突然ですが、ここで、一つのうまくいかない例について考えてみたいと思います。
伝えてみて、伝わらない。あるいは、ある程度書いて、あるいは話した段階で、「これだけでは伝わらない」と思う。
そんな時、説明を細かくしていって、知らず知らずのうちに、「型」の隙間を埋めるような伝え方を試みてしまうことがあります。

snap_ochadailala_2017102125359.jpg

上の図の、緑色の部分をわかってもらおうとしてしまうのです。
すると結果として、型がこんな風になってしまうことがあります。

snap_ochadailala_2017102125753.jpg

複雑な形で、相手はこの型に合わせるのに苦労してしまうでしょう。
自分にとってはとても大事な緑色の部分でも、相手にとっては違うことも多々あります
なぜこんな面倒くさい形を受け入れないといけないのか、なぜここまで情報と理解の「型」を決められ、厳密に従わなければならないのか、と疑問に思われるかもしれません。
結果として、相手は伝えられた内容に合わせて「型」を作ることに苦痛を感じたり、作ることをやめてしまったりするのです。

うまくいかない例でお伝えしたかったのは、伝える側が、相手に完全に近い理解を求めてしまうことの危うさです。逆でも同じことが言えるので、これは同時に、理解する側が、伝えられた内容を100%理解しなきゃ、と思うことの無謀さでもあります。
違う表現で言い換えてみると、伝える側→理解する側 のように、関係が一方通行になってしまうのは、両者にとって労が多いわりに益の少ないことなのではないか、ということです。

(つづく)


#みあ


理解すること,伝えること(3)―「型」と「型抜き」のミスマッチ

20171114日(火)
「理解される側」の私(=伝える私)は、考え方や価値観の塊である「型」を持っていると同時に「型抜き」も持っています。
こういう形だとします。
snap_ochadailala_2017102121253.jpg
仮に私が書くなり話すなりして、自分の「型」を示したとします。
その文章や話への感想や意見として、様々な「型」型抜きの中を通って行きます。
snap_ochadailala_2017102121755.jpg
こういう型だったり、→①
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こういう型だったり、→②
snap_ochadailala_2017102122436.jpg
はたまたこんな型だったりするかもしれません。→③

 理解する側に視点を移してみましょう。

私が「理解できた!」と思っている時、実は、

①みたいに微妙に大きさや範囲が違っていたり、
②みたいに形は結構違うけどたまたまスルッと抜けられているだけだったり、
③みたいに大体の範囲をカバーしているけどそもそもの基本が決定的に違っていたり、

と言うことが起こっているのかもしれない、いや、大体がそんなところだと思います。
理解する側とされる側がぴったりはまる、などと言うことはなく、
「型抜きに大体はまるくらいは形が似ている」(=形の違いは許容範囲内)と言うのがいいところでしょう。

つまり、読んだり聞いたりして理解しようとするとしても、書いたり話したりして何かを発信するとしても、「完全に理解すること、伝わることはない」と言うこともできるでしょう。

さて、ここで、とても当たり前のことを改めて考えてみたいと思います。
自分の持っているが伝わりきることはなく、相手の持っているを再現しきることもないとしたら、そもそも、なぜ私たちは、わざわざ自分から何かを発信したり、他者から何かを受信したりするのでしょうか。

(つづく)

#みあ

理解すること,伝えること(2)-「型」って信用できるの?

20171109日(木)
前回は、書かれていること(話されていること)に対応する「型」を持っているかどうかで、理解できるかどうかが決まってくると書きました。

もししっかりと持っていない場合は、すでに持っているバラバラのパーツをぎゅーっと集結させて、組み合わせて「型」を作ることを試みる…と、併せて述べました。

「型」の作り方(=理解の仕方)は一通りではないということですね。

何かの理論で説明されていることについて、専門的なことは何も知らなくても、理論にぴったり当てはまるような経験をしたことがあるから「実感として」わかる!!!ということはありませんか?
(病気の症状など、からだに関わる事は、特に実感から医学的知識の理解へ入っていく場合も多いかもしれません)
このように、「実感」から辿っていくと理論の理解が深まる場合もあります。
体験と、体験からくる実感が、一つの「型」となっているパターンと言えそうです。

…ところで、その「型」って、本当に信用できるものなのでしょうか?





「型」(=理解の仕方)は一通りだけではない、けれどその「型」って信用できるのだろうか…?”





「型」って信用できるの?
という疑問がなぜここで起こってくるのかと言うと、私たちは「理解する側」でもありつつ、何かを自分で伝えている時は、「理解される側」でもあるからです。

理解する側の中にある「型」は、果たして伝えて理解される側の「型」と同じでしょうか?
どう同じで、どう違って、どうかかわりあうのでしょうか?

次回は、「理解される側」であるときの私たちが何をしているのかについて、「型」のたとえから考えてみたいと思います。

(つづく)

#みあ