修論体験談④ー研究と生活のつながり一例

20180705日(木)
いつもの癖で、スパっとまとめられずに長々と書いてしまいましたが、今回で完結といたします。
(これまでの記事はこちらからご覧ください)
修論体験談①ー不可欠だったなあと思うこと&環境面
修論体験談②ー個人の動機を突き詰める
修論体験談③-1ーなぜ「必要」なのかを考える
修論体験談③-2ー文献で「歴史」を辿る

今回お書きするのは、修士課程当時の生活全体と修論とのかかわりです。
まず申し上げないといけないのは、普通に考えたら、あまり褒められた例ではないということ。
こうしたほうがいい、という王道を示すというより、
もし王道を突き進めなかったら、こういう抜け道もありますよ、という一例としてお読みいただければ幸いです。

修論体験談①ー不可欠だったなあと思うこと&環境面
において、不可欠だった要素の三つ目として、修論に繋がる作業が、
「日常生活の中で実践でき、研究と生活が切り離されていなかったこと」
を挙げました。

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私は所属コースで扱うことがらとの「ずれ」に頭を抱えることがありました。

修士論文のテーマに選んだことがらを追究することと、所属コースのアドミッション・ポリシーには「ずれ」がある気がしていました。
なぜなら、専門ということになっている「児童文学」、その中でも特に「現代児童文学」は、一般の文芸作品とは分けて考えた方がいいのではないか?と思わざるを得ない側面を持っていたからです。

もちろん、所属コースの授業で学ぶ内容と、抱えているテーマとは、深いところで繋がっています。
ただ、一般的にイメージされる「日本文学」に属する作品に比べると、繋がっている場所を見つけるのに、とても頭を使う、エネルギーを使うなあという感じでした。授業で学ぶ「日本文学」のことがらと、テーマである「現代児童文学」のトピックを、どこでどう繋げるのか、が修士課程全体のテーマだったと言えます。

授業を受ける過程で、別の分野に出かけて、同じ分野の人と話しては、違う分野の人と話しては、テーマを抱える原因を作っているプライベートなことで、悩みっぱなしでした。
悩むことと混乱することに精力を注いでしまったため、単位は必要最低限をちょっと超えたくらいを取得するのがやっとでした。しかも、4単位は専攻外の集中講義、2単位は専攻の必修科目、2単位は他専攻の科目だったので、所属コースの科目の割合は相対的に少ないと言えます。
悩みそのものが研究の一部となりうる内容でなかったら、無事に2年間で修了はできなかったでしょう。

確かに、悩む過程でたくさん考えたことの一部は活きました。
所属コース生として求められる知識の不足分を、補えないながらも無理やり補って繕うスタイルでハッタリをきかせて乗り切れたのは、悩むことで頭のトレーニングをしたからでしょう。

ですが、知識や常識の不足は現在まで続く課題であり、逃げ切れるものではありません。
これからどう取り組んでいけばよいか、今でも気が緩むと頭の中がごちゃっとなります。
(これでいいのか、と問うほど足がすくんで動けなくなるので、あまり気にしないことにしていますが。)
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こういう修士課程生活を送った立場から言えることは、

○修士ならまだ失敗しやすいと思います
○自分の問題に取り組むツールとして研究を使っても許されやすいと思います
○だから、研究の支障となる性格面・メンタル面の欠点や懸念事項に取り組むなら今のうち!
○背伸びしすぎないで、入学時点で持っていたものをどう使い切るかって方向で考えるといいですよ!

ということでしょうか。

今回取り上げた例は、最初に書いたように褒められたものではありません。
しかし、どうしようもなくこういう生活になってしまった、ということが現実であり、そこから出発するしかないのです。
それでも、本人としては、「そこからでも出発できる」と思いたい。
そういう気持ちで一連の記事を書かせていただきました。

今回はこれで終わりです。お読みくださって本当にありがとうございました。

#みあ

修論体験談③-2ー文献で「歴史」を辿る

20180614日(木)
「なぜその動機が自分にとって動機となりえたのか(必要だったのか)」
「自分にそういうことを動機とさせる(必要とさせる)社会とはどのようなものなのか」
「社会では、そのことが、どうして、どのように必要なのか」

を探っていくことが必要、と前回お書きしました。

私個人の場合、上記の疑問点に辿り着いて初めて、当該テーマの歴史を押さえる重要性、あるいは、関連する歴史をテーマと絡めて考察する重要性に行き当たりました。
遅きに失した感はありますが、大事な発見だったので、今回取り上げたいと思います。

研究の過程として歴史を押さえることが必須ということは、卒業論文で学んでいました。
しかし、今から振り返ると、当時はただ必要だと教わっているからやっているに過ぎなかったと思います。

卒業論文の時と異なり、修士論文のテーマに選んだ事柄は、私の個人的な問題にとても近いものでした。
そのため、あらかじめ支持したい考え方や立場があり、その立場に沿って文献に目を通しているところがありました。

ある時点の著者の見解が活字になることで固定化され、保存されているものが「文献」であると私は考えています。
どんなものであれ、書かれたものは過去のもので、「歴史」の一部です。

しかし、読み手にとって、その本を読む契機となった体験や動機が、当人の心中であまりに生々しすぎると、読み手にとってはまさに今現在のリアルな問題であるために、「歴史」の一つとして検証する視点を失ってしまいます。
読み手にとっての答えを証明する部分だけを抜き出して読んでしまうことになりかねません。個人で読む分にはそれで問題ありませんが、研究という社会的な行為にはそぐわないものです。

一人の頭の中だけで組み立てられた認識は、いくら申し分ないように思えても、偏っている部分があると思います。なぜなら、その人があることを体験したり、体験を通して考えたりするようになった背景は、例外なく歴史の延長線上にあるからです。自分の考えを証明するためのものとしてではなく、考えの発生源を見直し、認識自体を更新するために、歴史を知ることは不可欠です。
したがって、過去に積み重ねられてきた先行研究も、「今」援用できるツールになりうるか、を見るに止まらず、どのようなものでも歴史的事実の一つとして捉える必要があります。歴史を扱った本だけではなく、新しい主張を提示しているようなものでもです。
当該テーマに関わる「歴史」を掴み、再考察することによって、

「なぜその動機が自分にとって動機となりえたのか(必要だったのか)」
「自分にそういうことを動機とさせる(必要とさせる)社会とはどのようなものなのか」
「社会では、そのことが、どうして、どのように必要なのか」


これらの疑問の答えを自分なりに定め、自分の中にあった問題を社会的なものとして再定義するために読むという姿勢が、「研究的に」テーマと向き合うための基本となります。

長々と当たり前のことを書きました。
私は気づくのがかなり遅かったのですが、気づいたことで、遅読なりにも文献に当たらなければ、と先行研究を追う目的意識がしっかりしたので、幸いでした。

追記)2018年7月2日
目的意識を持って先行研究を追うことができるようになると、今の領域で研究する意義も見えてきたりしました。
修論体験談①の記事の、「今の専攻領域の方法で研究する必要性を捉えたこと」に当てはまる部分ですね。
続けてこの問題について記事を書く予定でいましたが、別の機会に改めて掘り下げたほうがよいように思えたので、今回はとばします。
次回で一旦完結させます。


#みあ

修論体験談③-1ーなぜ「必要」なのかを考える

20180531日(木)
「専門領域と研究目的や動機、手法とのつながりの再確認」について今回は取り上げます。
個人的なレベルまで戻って動機を詰め直し、今度は実際に外に出せる形に落とし込む作業です。
この項目に関しては、体験を言葉にすることに難しさを感じています。
ですので、ゆっくり進めていく予定です。


・なぜ「必要」なのかを考える
「好き」や「興味関心」から始まった専門分野との関わりは、「好き」や「興味関心」から距離を置くことができた/置かざるを得なくなった段階で、見直しを迫られます。
あることがらに一定の関心を寄せ、関わり続けるためには、自分にとってそれが信頼でき、また必要であることが求められます。
最初は、信頼と必要性の根拠が「好き」「興味がある」でもよかったのです。

卒業研究では、自分でテーマや目標を設定し、専門領域の手法を用いて、少なくとも一定の結論を得るところまで追究することが求められます。
自分の選んだ領域や研究手法を「ツール」として用いて、自分が抱いている疑問(それは、ジャンル自体に関心を持った動機とも重なりがちだと思います)に挑む作業と言い換えることも可能でしょう。

「好き」という感情は感覚的なものです。「好き」でいる間はとても楽しいのですが、「好き」という感情が湧くきっかけとなっていく、奥底にある何がしかの背景まで遡ると、決して楽しんでばかりはいられません。

前記事までの作業は、「奥底にある何がしかの背景」を「個人の動機」としてつまみ直したところまでにあたるでしょう。

そこから、それでは「なぜその動機が自分にとって動機となりえたのか(必要だったのか)」「自分にそういうことを動機とさせる(必要とさせる)社会とはどのようなものなのか」「社会では、そのことが、どうして、どのように必要なのか」を探っていく必要があります。

ここからは、意識的に文献の力を借りましょう。

続きます。


#みあ

修論体験談②ー個人の動機を突き詰める

20180524日(木)
「研究テーマに至る個人の動機を突き詰めること」について今回は書いていきます。
これは、研究の要素を持つ作業に取り組む際には欠かせないと考えています。

・出発点は忘れがち
高校生活後半(もしくはその前から)、進路を選択する頃には、その分野に興味を持ったもともとのきっかけとなった出来事から、時間的にかなり遠ざかっていることが多いと思います。
高校生になってから興味が湧いたという分野だったとしても、興味が湧くきっかけとなった、自身の感性や価値観は、小さい頃からゆっくり育まれたものと言えます。
しかし、大学で学ぶ過程で専門性を深めるにつれ、ますます出発点がどこだかわからなくなりがちです。
そもそもプライベートな領域にあった興味・関心・意欲などが、「進路」として選択されることで、ある種の公的な領域に移ってきているからです。社会や業界や周囲との関わりを無視することはすでに不可能です。


・学んでいくうちに、個人の動機が学問領域の方向性や目的に吸収されることが出てくる
よって起こりがちなのが、見出しに示した問題です。
その世界で目指すべきとされている価値観、出すべきとされている成果、従うべきとされている手順や方向性といったものが必ずあります。
専門性を深めるにあたっては、その分野特有の性質を学ぶことが不可欠です。
しかし、はじめから全部を知っていて、学び始めたわけではないため、すべてすんなり理解できるわけでも、納得できるわけでもないでしょう。
その時に、自分の中の違和感をなかったことにして、「こうなっているのだから、自分もこう思えるようにならないと」と考えてしまうのは、精神衛生上よくありません。
一度そうなったら、どこかで突き詰めないと、おそらく学ぶ過程で綻びが生じます。
自身が選択した専門領域の信頼性は、学びの土台です。その土台のバランスが崩れたままだと、中途半端になり、自分の意見をしっかり持つことが難しいと思います。

・もやもやしたら
換気をするように、新しい情報に触れることと、自分の持っているものを出し切ることができるといいと思います。
一番効率的なのは、誰か他人にアプローチすることだと思います。他人は新しいものを持っているし、関係性によっては、出したものを受け止めてくれる存在だからです。
一人の時に、文章でも、絵でも、音楽でも、スポーツでも、出せるものを通して、自分が何を考えているかを知ることにチャレンジしてみる、という方法もあるでしょう。とにかく表に出してみることが必要です。
お話しするという形でも、作品などに託した自己表現でも、出したものについて第三者からフィードバックをもらうことで、新しい発見や検討材料が得られます。

おまけ)お礼をする
ある程度整理がついたら、相手にきちんとお礼できるといいですね。
親しい間柄でしたらプレゼントだけでなく、楽しい時間を一緒に過ごすこと自体がお礼にもなるでしょう。

研究に直接関わる方々や、所属している専門領域への「お礼」は、何より研究を前進させていけることかもしれません。
ということで、専門領域と研究目的や動機、手法とのつながりを再確認について、次回はお書きできたらと思っています。

#みあ

修論体験談①ー不可欠だったなあと思うこと&環境面

20180510日(木)
こんにちは。LALAのみあです。
GW明けから雨模様で、急に寒くなりましたね。体調など崩されてはいませんか?
早速忙しい日々を送られていることと思いますが、調子悪いな〜という方は、休養をしっかりお取りになってくださいね。

さて、これから数回にわたって、4月18日・22日の「LALAセミナー」でお話しした内容をまとめていきたいと思います。あくまで現時点の考えということで、変わる可能性もあります。疑いを挟みつつ、参考程度にご覧ください。
また、以下、文体の都合上偉そうに断言したりしていますが、筆者自身は相当不肖であることを承知の上でご笑納くださいましたら幸いです。

☆☆☆☆☆
やっている間はかなり手探り状態でしたが、振り返ってみて、「今の結果(無事提出&修了&進学)に至るには不可欠だった」と思うポイントは大きく分けて3つあります。

① 修論のテーマを定めるに至った個人的な動機を突き詰めたこと
② ①の作業の上で、今の専攻領域の方法で研究する必要性を捉えたこと
③ ①②の作業が私自身の日常生活と関わるものであったこと
(日常生活の中で実践でき、研究と生活が切り離されていなかったこと)


そして、上記3点すべてを可能にしたのが、

「自分と考え方や感じ方の違う人と出会い、交流を持った」
「交流の中で出会った未知の人や考え方や概念、感じた他者との相違点によって、新しい発見ができた」

という経験の数々です。
(LALAでの活動も結構なウェイトを占めています)

ということで、上記3点のお話の前に、環境面で必要だと思うことを一つ挙げたいと思います。

☆☆☆☆☆
それは、当たり前ですが、「人と交流する時間と一人の時間とのバランスを取ること」です。
(おおざっぱですみません)
人と一緒にいるだけ、一人で勉強するだけ、にならないような環境を意識的に作ると良いと思います。
もちろん、人と一緒にいても閉じこもっていては一人と変わりませんし、一人でいても娯楽などで我を忘れすぎると進歩がなくなるので、外面的な状況ではなく、内実としてバランスが取れているかに気をつけたいところです。

特に、「文献調査」など、基本的に生身の人と関わらないでできる調査方法を用いる分野であればあるほど、上記のバランスに意識的であることは大切だと思います。

「文献調査」であれば、文献が読めればいいのでは?
そのためには、専門性を高める勉強が大事なのでは? 
それなのにどうして「出会い?」と思われるかもしれません。

しかし、人の手によって成った「文献」をどう読み、どう解釈するか、という所で大事になってくるのが、その文献がどのように読まれうる可能性があるのかを、できるだけ幅広く想定できることではないかと思います。

そのためには、自分の第一印象や共感できる部分だけにとらわれない必要があり、
そのためには、実際に自分自身が、自分以外のものの感じ方に直接触れてみる経験が必要です。

また、幅広い可能性が想定できたとして、そこで頭の中がごちゃごちゃになったままでは、文章にまとめることが難しくなります。
そこで、自分はどういう視点や考え方を取ることを選ぶかを、そのリスクも考慮した上で決める必要も出てきます。
それは人との交流とは正反対の、孤独な作業です。

つまり、人と十分関わることと、一人の時間を持って、一人で考えて決めることのバランスが取れていなければ、修論で出す内容のバランスも、やはり良くないのではないかと思います。

続きます。

#みあ