修論体験談③-2ー文献で「歴史」を辿る

20180614日(木)
「なぜその動機が自分にとって動機となりえたのか(必要だったのか)」
「自分にそういうことを動機とさせる(必要とさせる)社会とはどのようなものなのか」
「社会では、そのことが、どうして、どのように必要なのか」

を探っていくことが必要、と前回お書きしました。

私個人の場合、上記の疑問点に辿り着いて初めて、当該テーマの歴史を押さえる重要性、あるいは、関連する歴史をテーマと絡めて考察する重要性に行き当たりました。
遅きに失した感はありますが、大事な発見だったので、今回取り上げたいと思います。

研究の過程として歴史を押さえることが必須ということは、卒業論文で学んでいました。
しかし、今から振り返ると、当時はただ必要だと教わっているからやっているに過ぎなかったと思います。

卒業論文の時と異なり、修士論文のテーマに選んだ事柄は、私の個人的な問題にとても近いものでした。
そのため、あらかじめ支持したい考え方や立場があり、その立場に沿って文献に目を通しているところがありました。

ある時点の著者の見解が活字になることで固定化され、保存されているものが「文献」であると私は考えています。
どんなものであれ、書かれたものは過去のもので、「歴史」の一部です。

しかし、読み手にとって、その本を読む契機となった体験や動機が、当人の心中であまりに生々しすぎると、読み手にとってはまさに今現在のリアルな問題であるために、「歴史」の一つとして検証する視点を失ってしまいます。
読み手にとっての答えを証明する部分だけを抜き出して読んでしまうことになりかねません。個人で読む分にはそれで問題ありませんが、研究という社会的な行為にはそぐわないものです。

一人の頭の中だけで組み立てられた認識は、いくら申し分ないように思えても、偏っている部分があると思います。なぜなら、その人があることを体験したり、体験を通して考えたりするようになった背景は、例外なく歴史の延長線上にあるからです。自分の考えを証明するためのものとしてではなく、考えの発生源を見直し、認識自体を更新するために、歴史を知ることは不可欠です。
したがって、過去に積み重ねられてきた先行研究も、「今」援用できるツールになりうるか、を見るに止まらず、どのようなものでも歴史的事実の一つとして捉える必要があります。歴史を扱った本だけではなく、新しい主張を提示しているようなものでもです。
当該テーマに関わる「歴史」を掴み、再考察することによって、

「なぜその動機が自分にとって動機となりえたのか(必要だったのか)」
「自分にそういうことを動機とさせる(必要とさせる)社会とはどのようなものなのか」
「社会では、そのことが、どうして、どのように必要なのか」


これらの疑問の答えを自分なりに定め、自分の中にあった問題を社会的なものとして再定義するために読むという姿勢が、「研究的に」テーマと向き合うための基本となります。

長々と当たり前のことを書きました。
私は気づくのがかなり遅かったのですが、気づいたことで、遅読なりにも文献に当たらなければ、と先行研究を追う目的意識がしっかりしたので、幸いでした。

追記)2018年7月2日
目的意識を持って先行研究を追うことができるようになると、今の領域で研究する意義も見えてきたりしました。
修論体験談①の記事の、「今の専攻領域の方法で研究する必要性を捉えたこと」に当てはまる部分ですね。
続けてこの問題について記事を書く予定でいましたが、別の機会に改めて掘り下げたほうがよいように思えたので、今回はとばします。
次回で一旦完結させます。


#みあ