理解すること,伝えること(2)-「型」って信用できるの?

20171109日(木)
前回は、書かれていること(話されていること)に対応する「型」を持っているかどうかで、理解できるかどうかが決まってくると書きました。

もししっかりと持っていない場合は、すでに持っているバラバラのパーツをぎゅーっと集結させて、組み合わせて「型」を作ることを試みる…と、併せて述べました。

「型」の作り方(=理解の仕方)は一通りではないということですね。

何かの理論で説明されていることについて、専門的なことは何も知らなくても、理論にぴったり当てはまるような経験をしたことがあるから「実感として」わかる!!!ということはありませんか?
(病気の症状など、からだに関わる事は、特に実感から医学的知識の理解へ入っていく場合も多いかもしれません)
このように、「実感」から辿っていくと理論の理解が深まる場合もあります。
体験と、体験からくる実感が、一つの「型」となっているパターンと言えそうです。

…ところで、その「型」って、本当に信用できるものなのでしょうか?





「型」(=理解の仕方)は一通りだけではない、けれどその「型」って信用できるのだろうか…?”





「型」って信用できるの?
という疑問がなぜここで起こってくるのかと言うと、私たちは「理解する側」でもありつつ、何かを自分で伝えている時は、「理解される側」でもあるからです。

理解する側の中にある「型」は、果たして伝えて理解される側の「型」と同じでしょうか?
どう同じで、どう違って、どうかかわりあうのでしょうか?

次回は、「理解される側」であるときの私たちが何をしているのかについて、「型」のたとえから考えてみたいと思います。

(つづく)

#みあ