理解すること,伝えること(3)―「型」と「型抜き」のミスマッチ

20171114日(火)
「理解される側」の私(=伝える私)は、考え方や価値観の塊である「型」を持っていると同時に「型抜き」も持っています。
こういう形だとします。
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仮に私が書くなり話すなりして、自分の「型」を示したとします。
その文章や話への感想や意見として、様々な「型」型抜きの中を通って行きます。
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こういう型だったり、→①
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こういう型だったり、→②
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はたまたこんな型だったりするかもしれません。→③

 理解する側に視点を移してみましょう。

私が「理解できた!」と思っている時、実は、

①みたいに微妙に大きさや範囲が違っていたり、
②みたいに形は結構違うけどたまたまスルッと抜けられているだけだったり、
③みたいに大体の範囲をカバーしているけどそもそもの基本が決定的に違っていたり、

と言うことが起こっているのかもしれない、いや、大体がそんなところだと思います。
理解する側とされる側がぴったりはまる、などと言うことはなく、
「型抜きに大体はまるくらいは形が似ている」(=形の違いは許容範囲内)と言うのがいいところでしょう。

つまり、読んだり聞いたりして理解しようとするとしても、書いたり話したりして何かを発信するとしても、「完全に理解すること、伝わることはない」と言うこともできるでしょう。

さて、ここで、とても当たり前のことを改めて考えてみたいと思います。
自分の持っているが伝わりきることはなく、相手の持っているを再現しきることもないとしたら、そもそも、なぜ私たちは、わざわざ自分から何かを発信したり、他者から何かを受信したりするのでしょうか。

(つづく)

#みあ