理解すること,伝えること(4)―伝える情熱の落とし穴

20171123日(木)
伝えようとしたことが完全に伝わることなどない。
ある意味当たり前のことですが、それでも何かを書いて伝えないといけない。
それでは、なぜ伝えるのか。
大学の課題だから、何もしないよりは何かした方がいいから、などの消極的な理由がまっさきに浮かぶかもしれません。
時には、どうせ伝えるなら、これを伝えたい、相手に理解をしてほしい、という思いが浮かぶこともあるでしょう。

何かを伝えようとする時、伝えることがらについて、相手に理解してほしいという強い思いを持つことはとても大切です。
そういう思いがあるからこそ、相手と通じ合うことの少ない状況で、話したり書いたりという「行動」に移ることが可能なのだと思います。理解されにくいことがらだからこそ、自分が率先して伝えるという姿勢に結び付く場合も多いでしょう。
情熱や気概ともいえそうな強い思いが、伝えることを支えているんですね。

一方で情報の受け手が、「理解する側」に変わる時は、伝える側の持っている何かに、どういう形であれ「共鳴」している場合が多いでしょう。内容を構成する「型」に直接関心を持っているのかもしれないし、伝える側の人柄や熱意、姿勢に惹かれたのかもしれません。
当たり前のことですが、「共鳴」し、積極的に「理解したい」と思ってくれる受け手を得ることで、「理解する側」「伝える側」という関係が成立するのです。「理解する側」がいて初めて、「伝える側」の思いが生きてくるのですが……。

突然ですが、ここで、一つのうまくいかない例について考えてみたいと思います。
伝えてみて、伝わらない。あるいは、ある程度書いて、あるいは話した段階で、「これだけでは伝わらない」と思う。
そんな時、説明を細かくしていって、知らず知らずのうちに、「型」の隙間を埋めるような伝え方を試みてしまうことがあります。

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上の図の、緑色の部分をわかってもらおうとしてしまうのです。
すると結果として、型がこんな風になってしまうことがあります。

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複雑な形で、相手はこの型に合わせるのに苦労してしまうでしょう。
自分にとってはとても大事な緑色の部分でも、相手にとっては違うことも多々あります
なぜこんな面倒くさい形を受け入れないといけないのか、なぜここまで情報と理解の「型」を決められ、厳密に従わなければならないのか、と疑問に思われるかもしれません。
結果として、相手は伝えられた内容に合わせて「型」を作ることに苦痛を感じたり、作ることをやめてしまったりするのです。

うまくいかない例でお伝えしたかったのは、伝える側が、相手に完全に近い理解を求めてしまうことの危うさです。逆でも同じことが言えるので、これは同時に、理解する側が、伝えられた内容を100%理解しなきゃ、と思うことの無謀さでもあります。
違う表現で言い換えてみると、伝える側→理解する側 のように、関係が一方通行になってしまうのは、両者にとって労が多いわりに益の少ないことなのではないか、ということです。

(つづく)


#みあ