理解すること,伝えること(5)-まとめ
2017年12月01日(金)
以上をふまえて、まずは理解する側であるときに意識できそうなことを考えてみたいと思います。
理解する、という場合に、相手の主張の基本的な要素(主題と、主題の根拠となる部分)を正確に抑えておくことはもちろん大切です。
しかし、私たちが書いたり話したりする内容のまとまりには、基本的な要素の他に、「こうであってほしい」などの願望や、「ここを強調すべきだから強調する、ここはそこそこでいい」という、力を入れて示す部分とそうでない部分のばらつきなどが含まれているものです。根っこが一緒でも、枝葉が違うから、ひとりひとりの伝えるものが変わってくるのです。
物事を伝える際、枝葉はとても大切ですが、受け取る際、枝葉の部分をうまくキャッチできなかったり、同意できなかったりするのは仕方のないことです。
(もちろん、枝葉の部分が主題やその根拠の証明にどうかかわっているかをクールに検証する配慮は必要でしょう)
また、主題やその根拠について、とりあえず一度相手の型に合わせてみて、「ふーん」と思ったからと言って、そのままその型を自分の中に保ち続けていなくてもよいと思います。デフォルトで持っている自分の認識パターンに戻って、相手の型と自分の型とを比べながら一休みできたらいいですね。
そして、できるだけ完全に型に合わせたいと思う場合でも、力及ばずだったり、心理的に抵抗があったりする場合は、無理をしなくてもよいでしょう。
完全に合わせることはそもそも無理がありますし、型の違いから何かを学ぶ方が、おそらく両者にとって得るものが大きいからです。
理解のためにある程度型を合わせてみた後、自分の作った型と相手の持っている型との違いを考察する時、伝える側と理解する側の関係は双方向に開かれます。
伝える側としても同じことだと思います。
何をどう伝えるかを考えるとき、一番大事なのは、主張(主題)とその根拠の部分です。
気持ちの上では、その主張を持つに至った動機や経緯の方が大切で、相手に知ってもらいたいと思うこともあると思いますが、個人的なことになればなるほど、枝葉末節部分になればなるほど、相手と共有することは困難になるでしょう。(もちろん、主張内容や根拠を理解してもらうために必要な部分を選んで、具体例として盛り込むことは重要です。)
伝えるにあたっては、とりあえず主張(主題)とその根拠を押さえてもらうことのみを受け手への期待とするとよいでしょう。
枝葉末節の部分は、主張にその人らしさやオリジナリティを付与する役割はあっても、主張から独立したオリジナリティをアピールする役割もなければ、主張から独立して理解される必要もないのです。
また、もし、相手から何かレスポンスがもらえる場合、相手の型と自分の型がどう違うのかを考えてみることはやはり大切なことです。
特に伝える側は、必要であれば型と型とをぶつけあって、自分の型を変形させられるくらいの余裕が持てるといいですね。「理解される」ことを求めたのですから、受け取る側からのアプローチも受け止めることにチャレンジ出来たらいいなあと思います。
どうして伝えるのか、そしてどうして理解するのか。
つきつめると、他者と出会い、出会いを消化することで、自分の可能性を大きくしていくためと言えるのかもしれません。
なかなか難しいことですが、理解する側になってみたり、伝える側になってみたりする積み重ねで、バリエーション豊富なたくさんの型が持てると素敵だと思います。
最後はなんだか駆け足になってしまいました。
ここまでお読みくださって、ありがとうございました!
#みあ
理解する、という場合に、相手の主張の基本的な要素(主題と、主題の根拠となる部分)を正確に抑えておくことはもちろん大切です。
しかし、私たちが書いたり話したりする内容のまとまりには、基本的な要素の他に、「こうであってほしい」などの願望や、「ここを強調すべきだから強調する、ここはそこそこでいい」という、力を入れて示す部分とそうでない部分のばらつきなどが含まれているものです。根っこが一緒でも、枝葉が違うから、ひとりひとりの伝えるものが変わってくるのです。
物事を伝える際、枝葉はとても大切ですが、受け取る際、枝葉の部分をうまくキャッチできなかったり、同意できなかったりするのは仕方のないことです。
(もちろん、枝葉の部分が主題やその根拠の証明にどうかかわっているかをクールに検証する配慮は必要でしょう)
また、主題やその根拠について、とりあえず一度相手の型に合わせてみて、「ふーん」と思ったからと言って、そのままその型を自分の中に保ち続けていなくてもよいと思います。デフォルトで持っている自分の認識パターンに戻って、相手の型と自分の型とを比べながら一休みできたらいいですね。
そして、できるだけ完全に型に合わせたいと思う場合でも、力及ばずだったり、心理的に抵抗があったりする場合は、無理をしなくてもよいでしょう。
完全に合わせることはそもそも無理がありますし、型の違いから何かを学ぶ方が、おそらく両者にとって得るものが大きいからです。
理解のためにある程度型を合わせてみた後、自分の作った型と相手の持っている型との違いを考察する時、伝える側と理解する側の関係は双方向に開かれます。
伝える側としても同じことだと思います。
何をどう伝えるかを考えるとき、一番大事なのは、主張(主題)とその根拠の部分です。
気持ちの上では、その主張を持つに至った動機や経緯の方が大切で、相手に知ってもらいたいと思うこともあると思いますが、個人的なことになればなるほど、枝葉末節部分になればなるほど、相手と共有することは困難になるでしょう。(もちろん、主張内容や根拠を理解してもらうために必要な部分を選んで、具体例として盛り込むことは重要です。)
伝えるにあたっては、とりあえず主張(主題)とその根拠を押さえてもらうことのみを受け手への期待とするとよいでしょう。
枝葉末節の部分は、主張にその人らしさやオリジナリティを付与する役割はあっても、主張から独立したオリジナリティをアピールする役割もなければ、主張から独立して理解される必要もないのです。
また、もし、相手から何かレスポンスがもらえる場合、相手の型と自分の型がどう違うのかを考えてみることはやはり大切なことです。
特に伝える側は、必要であれば型と型とをぶつけあって、自分の型を変形させられるくらいの余裕が持てるといいですね。「理解される」ことを求めたのですから、受け取る側からのアプローチも受け止めることにチャレンジ出来たらいいなあと思います。
どうして伝えるのか、そしてどうして理解するのか。
つきつめると、他者と出会い、出会いを消化することで、自分の可能性を大きくしていくためと言えるのかもしれません。
なかなか難しいことですが、理解する側になってみたり、伝える側になってみたりする積み重ねで、バリエーション豊富なたくさんの型が持てると素敵だと思います。
最後はなんだか駆け足になってしまいました。
ここまでお読みくださって、ありがとうございました!
#みあ